昭和50年08月05日 朝の御理解
御理解 第33節
「お供え物とおかげはつきのもではないぞ。」
そんならおかげは、どういうものに付ものかと。信心におかげはつきものと云えば、まあ、あまりものことです。ですから皆がおかげを受けたり、そのおかげはこれはつきものと思われる位な、おかげを頂きたい。信心に修行はつきもの、その修行におかげはつきもの。そこで例えば、お供え物も修行と思うて、お供えをさせて頂けば有り難い事になって來ると思うです。
おかげを頂かんならんから、お供えをすると云う様な考え方ではいけない。勿論おかげを頂いて有難い、勿体ないのその印がお供えなんです。またはこの様な無理なお願いをする。そのお願いのお御苦労をかけるその印がお供えだと。だから、その印と云う事が私は修行だと思うです。おかげを頂かんならんから、お供えをする。それではおかげはつきものにならないと思うです。
何処までもお供え物が修行と云う頂き方。信心に修行はつきもの、その修行におかげはつきものである。ですから全てをその修行に絞るおかげを頂いて、神恩かたじけなしと云うその心が現れて來るのがその印でありお供えである。お願いをさせて貰う。この様な御無理なお願いをしておるからと、そのお御苦労に対するお印が修行。惟ならば私はおかげは絶対付物だと思うですね。
おかげを頂かなければならんから、お供えをするのでは、これは付物ではないと云う事になるのではないでしょうか。教祖はお供えとおかげは付物ではないと仰っとるのですからね。だから矢張り、おかげを頂く為に何とかそこにルートが出来なければならない。継ながりが出来なければならない。ならばそれを修行と思うて、ですからその修行は大きいが良いと云う事になります。
垢抜けした修行が良いと云う事になります。そうするとね、お金のお供えなら、お金のお供えを致します。一寸人間心を使うと、ほんに毎日、これだけの事をお供えするとが惜しみがつく様な感じがせんでもない。けれども、これが修行だと云う事になりゃ、例え惜しみがついても、神様が修行としてお受けになるのです。お供え物に、不浄がかかっちゃならない。
だから不浄が掛る位な大きなスキッとしたお供えが出来る様にならなければいけない。しかもそれは、おかげを頂かにゃならんからではなくて、修行として頂くのである。だから少しそこに不浄が付いてもです、例えばならここでは表行は致しませんけど、水を被るに致しましても、断食をするに致しましてもです、やっぱり水を被る時にはじゅつない思いがする。断食をする時には、もうそれこそもうひもじゅうしてひもじゅうしてと云う所も一遍は通る。理屈は同じ事です。
修行には矢張りそこに何かが伴う。苦労が伴う。場合には不浄も又伴うけれどもね、修行として私はそのしるしいと思う事も修行と思い、惜しいなと思う事も修行と思うて、そこを乗り越えてのお供えと云う事になれば、これは立派な修行。その修行におかげが付物。もちっと厳密に云うと、その修行にお徳がつきもの、そのお徳におかげがつきものと云うことになれば、もっと素晴らしい事だ。だから、お供えと云う内容はそんな風に皆さん頂き代えると有難いですね。
お供え物とおかげはつきものではないと仰るのだから、おかげがそれに伴うのじゃないと、だからおかげを頂かんなん為にお供えしよるとじゃいけんと云うことが分かるですね。そこで信心には修行は、ならつきものである。その修行におかげがつきものであるならば、出来るだけちとはむりむり云う位なお供えでもさして貰うて、云うならばむりむり云う位な修行として。
受けて頂く様になると素晴らしい事になるでしょうね。昨日は神愛会でしたから、先生方ギリギリの信心の研修をまあさせて頂きました。丁度最中でした。東京から電話が掛かってきたと云う。東京の伊藤さんと云う。さて東京の伊藤さんとは、誰だったか一寸思い出せなかった。それで電話機を取りましたら、あぁあんただったかと云う事で御座いましたけれども、此処に一回しか参って来た事がないんです。
日田の伊藤さんの二番目の息子さんなんです。今東京の大学に行っている。論文の提出、その為のお願いをしに今度帰って来て、お母さんと一緒に参って来たのが初めて、そしてすぐ東京へ帰りますけれども、四国に友人がおりますから、四、五日あちらで見物どもして、そして東京へ帰ると云う事であった。それで私は御神米を三体下げた。そして帰り道に、そして四国に回ったらあちらこちらに回って帰ると云うならば、只物見遊山でなくて、折角こうして信心を頂いたのだから。
信心実習だよと、信心の稽古と思うておかげを頂かれたらよかろうと云う事を、申しておきました。受話器を取りましたら、もうこの度初めて信心実習と云う事の有難さを感じましたと、こう云うのです。あちらへ行ったら友人の誘いで釣に出かけた。ところが船が小さかったのでもう、間も無く酔ってしまって、どうにも出来なかった。それで先生から頂いとる御神米を頂いて、金光様金光様唱えるけど、もうむつかしい様に、まあ吐くと云う意味でしょうね。
もう船べりにしがみついてから、金光様を唱えたけれども、どうにも出来なかった。その時にフッとその思い出した事はね、合楽の親先生と云う事だったそうです。もう親先生、もう本当に合楽の親先生と言うた途端にスッキリして一日、終日おかげを頂いたと云うお届けでした。先生もう一つ御座いますと云う。これは大変なおかげを頂いたと云う。どこかドライブに連れて行って貰うたと云う。
それが私が運転したばっかりにガードレールと云うですか、その居眠りしとったものですから、そこへぶっつける寸前に止まった。所がそれと同じ相手の方からもやっぱりやって来て、こんな具合いに(ゼスチャー)頭と頭がひっつかんばかりじゃった。二人ながら衝突してこの崖にども落ちとったら、ひっくり返っとったら、それこそ大変だったでしょうけれども、今度の様な素晴らしい、所謂大体信心がない。
お母さんが息子がどうぞ信心になります様にと云うてお願いしてあったが、母親は大変熱心な信心を日田の教会で二十年間も、もうそれこそ何かと云えば泊り込みで信心をなさると云う位熱心な信心をなさっておられた。その息子さんですから、神様が有難い事は大体おぼろ気に分かってあるけど、自分が金光様を唱え、自分の親先生を唱えて云うならばそういうはっきりしたおかげを見せて頂いたのは初めてであった。
してみると信心実習と云う事は、日々がそうであれば尚有難いと云う事になるですね。毎日毎日が信心実習なんだ、旅行に行ったり物見遊山の時だけが信心実習ではない。日々が信心実習である。そういう私は行き方そういう在り方に所謂おかげがつきものである。ここになって來る時に三十三節のおかげとお供え物と云われる、そんならどういう信心におかげはつきものかと云うと、日々が信心実習の心持ちで、神様を親先生を放さないと云う事だと云う事になりますですね。
それもその事前後してからでした。安東さんの村、岩光からああして皆熱心に参って見える。その中にその方の兄さん、自分のお姉さんの婿さんでしょうか胃ガンで手術をなさる事になったんです。それが田舎のお医者さんにやらせて頂いて、もう胃ガンも随分進んどるから大変難しいと親戚の者には云うてあった。本人には云うてなかったんです。所が本人は薬の卸屋さんです。
何か薬会社のセールスをなさっているらしいんです。それでお医者さんの書かれるカルテがドイツ語で書かれるとが分かる訳です。それで、あんたのは胃ガンじゃないと云われたけれども、家の者には云われてあるけれども、カルテにはちゃんと胃ガンと云う事が書いてあったから、もうその場でしまえたごと力を落とされた。そしてその嫁さんになる人が、只今から病院にやらせて貰うと云うて。
行き掛けにお届けをして行きました。それで私はね病院に行くのは安心の出来る事の為に行くのですよと、云うて帰しました。ところが医大に行きまして手術をしたところが、胃ガンじゃなかった。胃潰瘍であったと云う事になったんです。こりゃもう本当にそうです。それから大変順調に手術も済んでおかげを頂いたと、実は姉が御礼に出て來んならんのだけども、私が取り合えず御礼に出て来たと云う訳です。
確かにおかげとお供え物とはつきものではない様ですね。病院に行き掛けに寄って、まあ何がしかのお供えはされましたでしょうけれども、日頃信心がある訳でもなからなければ、またはその妹さんになる人が、特別お供えどもしてお願いしたと云う訳でもない。それでもそういう様な奇跡的なおかげになって現れて来ておる。確かにお供えものとおかげはつきものではない。
だから、ここまではこの教えを頂けば分かる訳です。けど、今日は皆さんに聞いて頂いたのは、そのお供え物とおかげがつきものになる。勿論それが力になる。お徳になると云う事を芯に聞いて頂いたんです。だからお供え物とはつきものではないけれども、修行ならば必ず力が頂けれる。お徳が受けられる、そのお徳におかげは絶対につきものであると云う事を聞いて頂いた。
皆さんがなら毎日お供えをなさる。そりゃ有難い勿体ないでそれこそ喜びと慎みを添えて出来る様なお供えなら愈々有難い。そりゃもう愈々有難いです。けど私はですちいたあ不浄のかかる位なね、垢抜けのしたお供えになる様な、おかげを受けにゃいけんと云う事を、聞いて頂いてちっとはむりむり云う位な、お供えが出来るくらいなおかげを頂きなさい。お供えをしなさいではない。
それを修行と思うたらそれが垢抜けておればおるだけ、それがむりむり云う事あればある程おかげは大きいと云う事になり、力は大きく頂く事が出来ると云う事が言えますね。だからね有難い勿体ないでお供えが出来るそれが第一です。けれども信心に修行はつきものと仰るのですからね、修行と思うてお供えさして頂く。それこそ食べ物は食べんでも飲む物は飲まんでも甘い物が好きな人が甘い物を絶った。タバコの好きな人がタバコを絶った。そして神様へお願いをする。そげな事したっちゃ何もならんです。
甘いものが好きな人が甘いものを食べたと思うて、金の百円もお供えした。タバコを飲む人がタバコを止めてそのタバコ代をお供えと思うて修行と思うてお供えをするでなからなければ、云うならば修行が裏付けがないでしょうが。只好きなタバコを止めてグウグウ云うてこらえとるのを見て神様が喜びなさる筈がないでしょうが。もうそれは、こすかけんそげな事しよるとていと。
云われても仕様がないでしょうが。だから私は修行に継ながらなければいけないと云うのです。ならタバコを止めるのが、金光様では修行になるかと云えば、そげな事では修行にならんと、タバコを止めたなら、日に百円のタバコを吸うなら、タバコを吸うたと思うて百円の賽銭なりお供えさして頂く時に、それがお供えになるのである、のと同時に修行にもなるのです。私は今日はおかげに継ながるお供え物、それを修行と思うて頂かせて貰うと云う事を聞いて頂いたですね。
同時に後からのお話は、金光様の信心はお供え物せんでん、繁々と参らんでんお供えさして頂いておれば、そういう奇跡的なおかげも頂けれると云う事実を聞いて頂いた。これはお供え物とおかげとはつきものではないと云う事を平面的にお話した様な事です。だからこれをもちっと深く頂かせて貰ってね、お供え物とおかげが伴うものを折角お供え頂いとるのだから、それがおかげに継ながる様な、云うならこういう頂き方もあると云う事を聞いて頂いたのですよね。
どうぞ。